広報とよた2024年3月号 特集1 そこにある、SDGsを見つける旅。

ページ番号1058043  更新日 2024年3月1日 印刷

俯瞰図
挙母町俯瞰図(「産業のころも」)昭和15年(一部)

この愛すべき風景をいつまでも…。
そう願う人々の気持ちは今も昔も変わりません。
SDGs、ゼロカーボン、エシカルなどと聞くと、何やら新しいことのように感じますが、このまちで、今日まで続く人々の営みには、すでに多くのSDGsがありました。
今、私たちが目指す「持続可能で、豊かな暮らし」とはどのようなものか。そのヒントを探ります。

豊かな自然との暮らし

猿投山や矢作川をはじめ、市域にはたくさんの山や川があります。この地に住む人々は、豊かな自然の恩恵を受けながら暮らしを営んできました。自然との共生を図ることで、人々は豊かな暮らしを続けてきたのです。

【SDGs】 Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略。2030年までに達成すべき世界共通の目標として、国連のサミットで採択されたもの。

Find for SDGs(1)今は無き? 三河漆をたずねる

漆掻き
漆掻きの様子
松平東照宮の天井画
平成27年に徳川家康公没後400年の記念で描かれた
松平東照宮の天井画。小原地区の安藤則義氏が漆絵を施した

漆とは

森林資源の中で、人との長い関わりを持ってきたものの1つが漆です。世界最古の漆を使った品は縄文時代の遺跡から見つかりました。今日でも、器などの日常道具や建築物の塗料など様々に使われています。独特の透明感があり、長く使うほど艶やかさを増す漆は、一度乾燥すると極めて固く、酸・熱・湿度に強い上、抗菌作用があると言われています。

かつての光景

市域山間部では古くからウルシの木が栽培されていました。「三河漆」と呼ばれるその漆は、かつて日本三大漆に数えられる(注釈:諸説有り)ほど、良質なものとして有名でした。かの日光東照宮の造営時にも多く使われたといいます。また、戦国時代には徳川家康に仕えた松平家忠が三河漆を買い求めに人を派遣したことや、江戸時代には越前(福井県)から幾人もの職人が三河漆を買い求めに来たことを示す史料が残っています。
1本のウルシの木から採取できる樹液の量は、約200グラムとごくわずか。漆掻きと呼ばれる職人が、木の幹に1本ずつ切り傷を刻み、そこから滲み出る樹液の滴を丁寧に採り集めます。樹液は、人間で言う血液のようなもの。だからこそ、固まると大変に強固なのです。1本のウルシの木は、1シーズンでその樹液を採り尽くされ、その後、根元で伐採されます(注釈:主な採取法)。しかしまた、根から萌芽が発生し、十数年かけて樹液が採れる木へと成長するのです。採れた漆は精製され、それぞれの職人の手へと渡っていきます。かつてはそんな光景が市域でもありました。

未だ残るもの

戦後、化学塗料の台頭などによって漆の需要は低迷し、いつしか漆掻きをする人も、山に育つウルシの木も見られなくなりました。現在、日本で使われる漆のほとんどが外国産のもの。しかし、漆の文化は未だ市域にも残っています。小原和紙工芸の指導者として知られる藤井達吉が昭和初頭に三河漆の素晴らしさに着目したのをきっかけとして、後に小原や足助で独自の漆工芸の技法が生み出されました。達吉の意思を継ぐ漆芸家は現在も市域で活動しています。数年前、小原地区では漆文化の継承を願い、ウルシの木々が植えられました。果たしてこの先、樹液の採れる木へと成長するのか。自然との付き合い方の模索は続きます。

参考・出典…「足助の漆(発行/足助町緑の村協会)」「はじめてのとよた史」「新修 豊田市史15 別編 民俗I」ほか

Find for SDGs(2)衣のまちをたずねる

手織り
手織りの様子
和綿
古くから国内で栽培された和綿

木綿から生糸へ

クルマのまち、豊田市。かつてここは、衣のまちでした。
その歴史は、まず木綿から始まります。

木綿とは、植物の実である綿花から糸を紡ぎ、織ってできる布生地のこと。三河は、インドから日本に初めて木綿が伝来した、木綿発祥の地とされています。三河産の木綿を使った織物類は「三河木綿」として古くから有名で、中でも挙母は、良質な綿の産地でした。特徴は、精白な糸で高密度に織り締められた丈夫な生地感。江戸時代には、遠く江戸の市場でも流通していたそうです。明治期に入ると、ある発明家が作った「ガラ紡」という糸紡ぎの機械が、市域(特に松平)で画期的な進化を遂げます。それは、豊富な川の水量と急流を生かした「水車」を動力としたこと。これにより量産化が進み、綿紡績業は急速に発展しました。その後インド・中国産の綿に押され、三河の綿栽培は衰退の兆しをみせるようになりますが、明治20年代からは養蚕業が盛んになり、それまで綿を作付けしていた畑が桑畑に転換されるようになりました。挙母のまちは、繭(生糸)においてもまた、全国有数の産地として発展したのです。稲武では、名家である古橋家が養蚕業を奨励したことで、養蚕製糸業がとても盛んでした。伊勢神宮の由緒ある祭礼のために、明治15年(1882)から今日まで、生糸を毎年献納し続けています。また、天皇陛下が代替わりする際の大嘗祭に奉納される絹織物にも、稲武の生糸が使われており、赤引糸と呼ばれる三河産の生糸は最高品質のものとして全国に知られています。

衣服の価値

個人の暮らしにおいて、衣服は近い距離にあるものでした。昔はどの家でも綿を栽培し、普段の衣服や仕事着は自家製の木綿で賄っていました。自分で作るから、直すことも自分でできる。衣服は繕いながら着続け、あるいは雑巾など別の形で使い続けるものでした。また当時、養蚕業は一家総出の仕事でした。子どもでも蚕へのエサ(桑の葉)やりなどをします。桑の葉が温かくなりすぎないよう水を掛けながらほぐしたり、蚕は濡れた桑の葉を嫌うので、与える直前に桑についた水を拭き取ったりと様々な苦労があったといいます。そうして作られる衣服の価値を知っているからこそ、大事に使い続けるという意識を、人々は自然と持っていたのかもしれません。

Action for SDGs 今、進めている 衣服循環という取組

衣類

大きな問題

現代では、既製服の多様化・個性化が進み、また手頃な価格の「ファストファッション」が台頭するなど誰もが様々な服装を楽しめるようになりました。しかし一方で、深刻な問題も生じています。国連貿易開発会議(UNCTAD)は「世界の環境汚染産業」として石油産業に次ぐワースト2位にアパレル産業を挙げました。国際化が進んだ今、日々大量の衣服が作られては捨てられています。その過程で多くの石油や化学薬品などが使用され、C O2やごみが排出されているのです。
豊田市では、集団回収や各所に設置しているリサイクルステーションで、家庭で不要になった古布(衣服として再利用できるもの)を回収しています。回収された古布は、リサイクル工場で選別後、衣服を必要としている海外の地域へ送られるなど再利用が図られています。しかしながら、環境省の調べによれば、ごみに出される衣服(年間約50万トン)の95%が廃棄され、再資源化される衣服はわずか5%といいます。

試み

そこで市は、新たな取組として、衣服が資源として経済的に循環する仕組みづくりに向けた実証事業に取り組んでいます。この取組は、家庭から出される古布のほか、工場で廃棄されるユニフォームなどを、市内事業所での選別・搬送を経て、協力事業者がケミカルリサイクル(注釈)など様々な方法で再資源化(製品化)するというものです。衣服循環の仕組みをつくることは簡単なことではありませんが、他市に先駆け、「ミライのフツー」に向けて取組を進めています。

(注釈)ケミカルリサイクル…使用済みの資源を化学的に分解し、原料に変える方法

衣服循環の実証実験やエコフルタウンに関する問合せ/未来都市推進課(電話番号:0565-34-6982、ファクス番号:0565-32-3794、Eメール:hybrid-city@city.toyota.aichi.jp)

SDGsの発信拠点はとよたエコフルタウンから博物館へ

豊田市が平成21年に環境モデル都市に選定されたことを受け、平成24年に開館した「とよたエコフルタウン」。太陽光発電・蓄電池などを組み合わせたスマートハウスや水素ステーションなど多くの環境技術が展示され、低炭素な暮らしを体験できる当施設には、これまでに121の国・地域から約40万人が来館しました。そして現在、当時最先端であったこれらの環境技術の多くは、生活の中で実用化されています。博物館が4月26日(金曜日)に開館することに伴い、エコフルタウンは3月31日(日曜日)をもって閉館し、SDGsに関する取組の紹介など一部の機能を博物館に移転します。

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