広報とよた2023年1月号 新春特集 そうでしょ家康 はじまりは、松平。

ページ番号1052465  更新日 2023年10月3日 印刷

松平東照宮の天井画

わがまち「とよた」を自慢するとしたら、あなたは何を語りますか?
数ある魅力のうち忘れてならないのが、とよたに伝わる様々な歴史。特に、このまちが「徳川家康」ゆかりの地であることをご存じですか。天下統一を成し遂げ260年にも及ぶ天下泰平の江戸時代を築いた家康は、まさに「松平」の地が輩出した人物です。誰もが知る日本の歴史に、このまちが深く関わっていると思うと、何だかわくわくしませんか。この特集では、家康の生い立ちから、ゆかりの場所、残された品々などをご紹介します。

徳川家康ってどんな人?
戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の武将。豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦いで勝利して天下の実権を握り、江戸に幕府を開きました。実は「徳川家康」の前は「松平家康」という名前でした。

(備考)写真は、松平東照宮の天井画を撮影したもの

天下人 徳川家康との接点-歴史-

徳川家康が歴史の表舞台に立つのは、豊臣秀吉の死後、天下分け目の「関ケ原の戦い」で勝利を収めた頃。それよりも前、「松平」の姓を名乗っていた家康は、ここ三河の地でどのように過ごし、活躍していたのでしょうか。

松平家に生まれる

家康は松平家の子として、1542年12月26日に岡崎城で生まれました。幼名は「竹千代」。
松平家は、松平郷(現在の松平町)を拠点に、周辺地域に領地・勢力を有していた一族です。松平家3代目の時に、次男・信光が「松平宗家」として岡崎を領地とし、長男・信広が「松平太郎左衛門家」として先祖の地・松平郷に残りました。家康は松平宗家8代目・広忠の子として生まれました。

松平郷の由緒ある井戸水を竹千代の産湯に!

松平家は代々、松平東照宮の境内にある井戸の水を、産湯(赤ん坊が初めて浸かるお湯)としていました。岡崎城で家康が生まれた時も、この水が早馬で運ばれました。

記念すべき初陣は寺部城攻め

尾張の織田信長と駿河の今川義元が敵対する中、松平氏は今川氏と同盟を結び、その証しとして、幼い家康は今川氏の下で人質にされました。家康(当時:元康)が17歳の時に、今川義元から初の出陣として命じられたのが「寺部城攻め」といわれています。家康は寺部城主鈴木氏を攻め、大いに活躍しました。

市域での戦いの数々

1560年の桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ったのを機に、自由の身となった家康。その後、家康が西三河を平定していく過程で、市域ではいくつもの戦いがありました。

市域での戦いの数々

市域で繰り広げられた主な合戦 1558年 寺部城攻め(寺部町) (勝者)徳川家康 (敗者)鈴木氏、1560年 広瀬城の戦い(東広瀬町) (勝者)徳川家康 (敗者)三宅高清、1563-64年 三河一向一揆(三河一帯)(勝者)徳川家康 (敗者)三河一向一揆衆、1564年 上野城の戦い(上郷町) (勝者)徳川家康 (敗者)酒井忠尚、1564年 足助城の戦い(足助町) (勝者)徳川家康 (敗者)鈴木重直、1575年 武節城の戦い(武節町) (勝者)徳川軍 (敗者)武田軍、(備考)徳川軍が関わったとされる合戦を掲載

1560年の桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ったのを機に、自由の身となった家康。その後、家康が西三河を平定していく過程で、市域ではいくつもの戦いがありました。

寛大な対応で、家臣からの信頼を揺るぎないものにした、三河一向一揆

家康が三河を平定する過程で起こった最大の危機、三河一向一揆。家康の支配体制に不満を持つ一向宗寺院の門徒や農民らが起こしたものですが、一揆方に加わった家臣は少なくありませんでした。しかし一揆を平定した家康は、一揆に加担した家臣たちを許し寛大な対応をしたといいます。この後、三河を統一した家康は「徳川」に改姓し、「三河守」として名実ともに三河の大名となりました。

はじまりは、松平親氏

家康の生涯年表

流れ着いた松平の地で
その昔、各地を流浪する僧の一人が松平郷という地に立ち寄りました。領主が催す連歌の会に参加したことをきっかけに、領主に気に入られ婿入りすることに。見込まれた彼は領主の後を継ぎ、松平太郎左衛門親氏と名乗りました。彼こそが松平一族の始祖、松平親氏。天下泰平を志す親氏は、領内の平安に目を配りながら、その領地を拡大していきます。

家康はなぜ、「松平」から「徳川」になった?

家康の生涯年表 1542年 松平家嫡男として誕生、1547年 織田(のち今川)氏の人質に、1558年 寺部城で初陣、1560年 桶狭間の戦い(家康独立)、1564年 三河一向一揆を平定、1566年 徳川に改姓し従五位下三河守に、1590年 江戸城へ入城、1598年 豊臣政権五大老の筆頭に、1600年 関ケ原の戦いで勝ち天下人に、1603年 征夷大将軍に(江戸幕府開府)、1605年 将軍職を三男・秀忠に譲る、1615年 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす、1616年 駿府城で死去

家康が姓を「徳川」に変えたのは、三河を治める「三河守」という官職を朝廷から任されるためであったと言われています。こうした官職は源氏や平氏、藤原氏など限られた氏族にのみ認められるものでした。そのために許可が下りず頭を抱えていた家康は、祖先の系譜を調べ「かつて得川郷(群馬県)に住んでいた祖先から、源氏と藤原氏の2系統に分かれた」という史実を見つけます。そして「松平」から藤原氏系統の「得川」に姓を戻すという苦肉の策を考え、三河守を叙任されました。また、「得」の字を縁起の良い「徳」の字に変えて、「徳川」を名乗ることになったのです。

家康ゆかりの「わがまち武将」

徳川家康を支え、共に戦った武将として語られるのが、「徳川四天王」と「徳川十六将」。四天王や十六将に数えられた豊田市ゆかりの3人をご紹介します。

四天王 榊原康政(さかきばら やすまさ) 上郷ゆかり

榊原康政

家康が惚れ込んだ多彩な才能
「徳川四天王」の一人・榊原康政は、三河国上野(上郷町)で、松平家に仕える榊原家に生まれました。13歳の時、学問をおさめるために通った大樹寺(岡崎市)で、当時19歳だった家康にその才能を見出されます。文武ともに秀でた康政は、数々の戦で先鋒を務め、家康の確固たる信頼を勝ち得ていきました。その証拠に「康政」の「康」は、戦いの功績から、家康が自身と同じ字を授けたもの。また、政治的な手腕もあり、家康への様々な取次ぎも任されていました。その名を有名にしたのが、豊臣(当時:羽柴)秀吉を非難した「檄文」。織田信長の後継者を巡り、織田・徳川方と対立した秀吉を、「恩知らず」として非難する書状を敵味方に送り、敵への挑発と味方の士気高揚を図りました。康政の首に恩賞をかけるほど激怒した秀吉でしたが、和睦後はかえってそんな康政を称賛したと伝えられています。
現在、榊原康政の生誕の地である豊田市は、榊原家ゆかりの3市とともに榊原サミットを開催し、交流・連携を深めています。

十六将 渡邉守綱(わたなべ もりつな) 寺部ゆかり

渡邉守綱

「槍の半蔵」の異名をもつ武将
「徳川十六将」の一人・渡邉守綱は、家康と同じ年の生まれ。松平家の家臣のもとに生まれ、若くから家康に仕えました。守綱の特徴は、何といっても槍の腕前。多くの戦で武功をあげ「槍の半蔵」と呼ばれたほどです。忠義に厚い守綱でしたが、主君・家康に背いたことがありました。それは1563年の三河一向一揆。家臣が徳川軍と一揆方に分裂するなか、熱心な一向宗の門徒だった守綱は、一揆方に加わり徳川軍と戦うことに。一揆の鎮圧後、処分を覚悟した守綱でしたが、家康の寛大な対応により許され、戦死した父の旧領を与えられたといいます。その後、家臣としてより一層の活躍をする守綱に対し、家康は褒美として珍しい「南蛮胴具足」を与えたり、交通の要所として重要な寺部の地を寺部城主として任せたりするなど、非常に高い信頼を寄せていたことが分かります。

十六将 内藤正成(ないとう まさなり) 上郷ゆかり

内藤正成

勇猛果敢。主君一筋の、弓の名手
「徳川十六将」の一人・内藤正成は、挙母藩内藤家の祖先・内藤家長の従兄弟にあたる人物で、勇猛果敢な弓の名手でした。若かりし正成が、上野城(上郷町)を攻めてきた尾張の敵兵約200人を弓で討ったという逸話があり、この話を聞いた家康の父・松平広忠が自身の家臣にしたといいます。また、他にもこんな逸話が。1575年、二俣城(静岡県)を攻めに出陣した徳川軍一行。正成は怪我のため浜松城に残り、守りを任されます。出陣後、程なくして急激な雨風に遭い、徳川軍は浜松城へ帰ることに。「徳川四天王」の一人で「当代最強の武将」ともいわれる本多忠勝は、先に人を走らせて城の門を開けるよう指示。しかし正成は、夜間の早すぎる帰還を不信がり開門に応じない。それではと、忠勝自身が駆けつけるも、正成は応じないどころか、銃により威嚇。最後には家康自身が現れて、正成を説得。正成は、灯りで家康の顔を直接確認し、ようやく慌てて門を開けたといいます。主君一筋で真面目な正成の人間性がうかがえます。

長篠合戦図屏風(ながしのかっせんずびょうぶ)に見る「わがまち武将」たち

長篠合戦図屏風


長篠合戦図屏風の一部拡大
松の樹に隠れている徳川家康
(備考)姿は隠れていて見えません
長篠合戦図屏風 榊原康政、渡邉守綱、内藤正成
榊原康政(左)、渡邉守綱(中)、内藤正成(右)

渡邉守綱の旗印は家康の命によるデザイン

渡邉守綱の旗印

守綱の旗印は「手桶」のデザイン。これは家康が「半蔵=半ぞう(たらい)=手桶」という洒落と、寺部城攻めでの守綱の活躍にちなんだ「寺部は半蔵に手を置け」という2つの意味を込めて命じたものとされています。

「わがまち武将」渡邉守綱ゆかりの地

渡邉家の墓所は、寺部町の守綱寺と随應院の境内にあります。守綱寺は渡邉家の菩提寺であり、歴代当主は同寺の渡邉家墓所に葬られました。随應院には、渡邉家の初代から3代目当主の夫人が葬られています。

家康ゆかりの地

徳川家康が実際に訪れたとされる場所など、市内にあるゆかりの地をご紹介します。

松平郷園地

松平郷園地(松平町)
園内には、家康と始祖・親氏を祀る「松平東照宮」や、松平家の菩提寺「高月院」などがあります。当時を思わせる室町塀や冠木門などもあり、楽しく散策できます。


神退の渡船場

神退の渡船場(配津町)
家康は、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた知らせを聞き、いち早く岡崎へ向かいました。大高から鳴海、知立などを通り密かに配津村(配津町)に到着し、神退の船頭の案内で矢作川を渡り、無事岡崎の大樹寺に入ることができたといいます。


家康公御手植の松の碑

家康公御手植の松の碑(高月院(松平町))
家康が19歳のとき、高月院で墓参りをした後に、松を中門の下に植えたといわれています。その松は枯れてしまいましたが、現在、境内には将軍家ゆかりの松が植えられています


妙昌寺

妙昌寺(王滝町)
狩りに来た松平親氏がお堂を寄進したという妙昌寺。関ケ原の戦いの後に妙昌寺を訪れた家康が、お供をした鈴木忠兵衛重次らに、山中の生活は鮮食に乏しいから、足助川に簗を作って魚を捕ってもよいと、この地で伝えたという伝承があります。今日まで続く簗漁もまた、家康が残したものと言えます。

家康ゆかりの品

徳川家康の遺品は、その多くが徳川御三家のものとして、今日まで大切に伝えられています。
ここでは、市内に伝わる家康ゆかりの品の一部をご紹介します。

木造徳川家康像

木造徳川家康像 豊田市指定有形文化財(彫刻)
三河一向一揆において、家康は隣松寺(幸町)を本陣として戦いました。その際、寺内の稲荷明神に勝利を祈願。この木像はその戦勝記念として隣松寺に安置したものといわれます。彫像では珍しい甲冑姿の家康です


朱塗黒糸威具足

朱塗黒糸威具足
松平太郎左衛門家9代目尚栄が、関ケ原の戦いでの武功により、家康から拝領したとして伝わる具足。この具足は、大坂の陣にて尚栄が着用したと伝えられており、3か所に刀傷を見ることができます。


軍配

軍配
松平太郎左衛門家9代目尚栄が、家康から拝領した軍配。大坂の陣の際、真田幸村の本陣急襲から家康を救った功績によるものと伝えられています。中央に葵の紋が大きく描かれ、柄には金泥で紋様が描かれています。

御城印で豊田お城巡り!!

徳川軍が戦った足助城や上野城など、市内には150以上のお城(城跡)があると言われています。現在、市内高校生がデザインした御城印を販売しています。この機に、お城巡りをしてみませんか。

  • 販売場所 足助城・飯盛城の御城印/足助城
    桜城・七州城・上野城・鴛鴨城の御城印/発見館
    (備考)上野城は上郷区民会館、鴛鴨城は鴛鴨区民会館でも販売
    (備考)1枚300円。無くなり次第終了。お城は今後追加予定
  • 問合せ ツーリズムとよた(電話番号:0565-85-7777)

市民の皆さんへ

徳川宗家 19代当主 徳川 家広さん

三河武士団の団結力は今日の豊田市にも
松平郷をルーツとする三河松平家の歴史は、安全を求め、一族郎党の暮らしを少しでも良くしようと、無我夢中で頑張ったというのが実態だったと思います。その頑張りを松平元康あらため徳川家康の天下統一へとつなげたのは、三河武士団の団結力だったわけですが、豊田市を訪れるたびに、団結力の根っこにあった心意気は今も健在だと、私は痛感させられます。 

松平太郎左衛門家 25代当主 松平 輝夫さん

今年はぜひ、市内の歴史探訪を
豊田市が徳川家康公の先祖の地であることはご存知でしょうか。家康公の先祖の地は松平にあります。豊田市は産業の都市、歴史の都市、自然と環境・景観に恵まれた世界でも類を見ない都市です。豊田市で出会う人々の表情は大変優雅で気品に満ち、笑顔を絶やさず、誇りと自信に満ち溢れた心を感じます。今年、市内の歴史探訪を楽しんでみてはいかがでしょうか。

豊田市長 太田 稔彦

先人たちの物語が、まちへの誇りを与えてくれる
世界を代表する「クルマのまち」と言われる豊田市は、現代的な都市という印象が強いかもしれませんが、このまちには古代から中世、近代にかけての様々な歴史が積み重なっています。徳川家康をはじめ、それぞれの時代を懸命に生き、未来を拓いてきた先人たちの物語は、私たちに「まちへの誇り」を与えてくれます。まちの歴史を体感できる場となる(仮)豊田市博物館は、令和5年度に一部オープン、令和6年度に全面オープンを予定しています。皆さんの知らない豊田市がきっと見つかるはずです。どうか楽しみにしていてください。

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