明治~市制施行(とよたの起源)

ページ番号1004598  更新日 2021年9月3日 印刷

豊田市の起源をご紹介します。

明治時代

写真:大正期ころの百々の貯木場

明治用水、枝下用水ができると、南部地域は耕地を広げ、人々の生活も潤いました。矢作川、巴川を利用した水運は、江戸時代に大きく発達しましたが、明治時代になってもその果たす役割は大きいものでした。百々町にある「貯木場」は、上流から切り出した材木を一時貯めておく場所で、川の中流域にある貯木場は産業遺産としても貴重で、現在市の史跡に指定されています。
川は物資だけでなく、人を運び文化的な交流も生み出し、地域の人々の生活に重要な役割を果たしました。しかし、やがてダムができ、物資輸送が鉄道やトラックに取って代わられると人々は川から離れていきました。
また、豊田市域の近代化を支えた産業としては蚕糸、綿糸(ガラ紡)、陶土・石粉生産(トロミル)、ダルマ窯による製瓦などをあげることができます。

ガラ紡の繁栄

写真:松平地区のガラ紡工場

1873(明治6)年に発明されたガラ紡機械は、この地域の産業を大きく変えました。豊田市域でいち早くガラ紡が導入されたのは高岡地区・堤村でしたが、大きく発達したのは松平地区でした。松平地区では、巴川支流の急流と豊富な水量を利用した水車によるガラ紡でした。水車ガラ紡は、次第に電力によるガラ紡へと変わり、1955(昭和30)年代まで続けられました。

養蚕からクルマへ

写真:喜多町のマユ問屋(1921(大正)10年ころ)

明治から大正にかけて、挙母町は養蚕・製糸業を中心に発展を遂げました。乗合自動車の開業や三河鉄道(現・名鉄三河線)の開通など、大正時代半ばまでに挙母町が大幅な交通網の近代化に成功したのも「三河地方有数のマユの集散地」だったという点があります。
しかし、昭和に入ると国内・外の生糸の需要は急速に陰りを見せ始めました。「養蚕の町」として栄えてきた挙母町も、その影響を受けていました。ちょうどこの時期、刈谷の豊田自動織機製作所が新しく設置した自動車製造部の工場用地を探していることを知った当時の町長・中村寿一は、町の繁栄を取り戻すため町議会に協力を要請し、いち早く工場の誘致に乗り出しました。
町長はじめ大勢の人々の努力の末、1938(昭和13)年トヨタ自動車工業株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)の挙母工場が論地ヶ原(現・トヨタ町)の丘陵地に完成しました。工場ではトラック、バス、乗用車などの生産が開始され、ここに「クルマのまち・豊田」としての第一歩を踏み出しました。

市制施行へ

戦前から挙母町を市にしようとする動きはありましたが、深刻化する戦時体制や、人口が規定に満たないなどの事情から、なかなか実現に至りませんでした。しかし、戦後の混乱がほぼ収まり、人口も3万2000人を超えたため、待望の市制を施行することができました。戦後に入ると、碧南市や刈谷市など近隣の町でも次々と市制施行が実現し、「挙母市」に向けての要望はいっそう高まりました。こうして1950(昭和25)年12月、臨時議会が「挙母市制施行申請書」を県に提出し、翌1951(昭和26)年2月の県議会で全会一致の可決を得て、3月1日、待望の「挙母市」が誕生しました。

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